アヘン戦争の結果 <イギリス・歴史・香港>

南京条約により香港島を手に入れたことに始まる。

当時、対中国貿易の拠点は広州であったが、香港島は安全で停泊地としての条件がよく、中国本土に近いため、広州にかわりうる条件を備えていた。

1842年にいち早く自由貿易港宣言が行われたが、これはその後、広州の貿易活動を抑える役割を果たした。

イギリスはさらにアロー戦争を仕掛け、北京条約で九竜とストーンカッターズ島を獲得して直轄植民地に編入した。

そして1898年には直轄植民地の防衛を口実に新界を租借し、ここに今日の香港の領域が確定した。

1899年には九広鉄道建設の権利を中国から得て、沿岸航路を開設し、以来香港はイギリスの対中国、対アジアの貿易、交通、金融の拠点となった。

1912年の中華民国の成立に続く内乱期には、中国人と彼らの資本の避難所となったが、民族主義運動の激化によって25~27年には反英運動が高揚した。

しかし、日本が中国東北地区を支配するようになると中国とイギリスの関係は友好的になり、1937年、日本軍が中国を侵略すると、中国人の香港流入が相次いだ。

しかし1941年の太平洋戦争勃発と同時に香港は日本軍の攻撃を受け、以後45年8月30日までその占領下に置かれた。

第二次世界大戦後はイギリスの施政下に戻り、1948~50年の中国内戦と共産主義政権の成立によって、中国人移住者とくに難民が急増し、以来人口は増加の一途をたどった。

また経済は1950年代までは中継貿易に依存していたが、60年代以降は工業や観光が目覚ましい成長を遂げた。

こうしたなかで中国の「文化大革命」の時期には、香港でも左派系中国人による反英闘争があった。

しかし中国は経済活動や政治・外交のうえで香港の重要性を利用することが得策だとみていた。

1978年末の小平による「改革・開放」体制への転換によって、中国は香港の平和的返還への道として「一国両制」や「港人治港」を戦略にイギリスとの交渉を進めた。

その一方で、80年代に入って中国は香港に隣接した深に経済特区を設けて、香港からの積極的な投資を誘い、華僑の中国訪問も促すこととなった。
update:2010年02月17日